些事記

放浪の身で僭越ですが、語らせてください。

価値観

 「人によって受け取り方が違う」と、「人によって価値観が違う」とみんな言う。「この人とは価値観が合わない」とか「絶景を見て価値観が変わる」とか。辞書によると価値観とは「物事の価値に対する、個人の考え方」であるそうだ。そもそも、人によって「ある物事の価値に対する考え方」が違うのは当然だろう。それが一致しないからといって友好関係を断つということがかなり極端だと思うのだが。それでずっと「価値観ってなんやねん。なんでみんなこんなこの概念を引き上げるねん。」と前から思っていたのだが、最近更に何がなんだかわからなくなった。
 と言うのも、まさに「価値観が変わったから」である。例えば、日本を出るまでの僕にとって、「お金」とは服飾との交換券のようなものであった。理由は簡単で、服以外にお金を使っていなかったから。バイトをしてお金を稼ぎ、服に交換する。ぐらいの「考え方」だった。しかし、外国に来て、夜遊びを知り、酒、音楽、女、それら全てが購入可能なものであることに気づいた僕にとって、お金はもはや1年前僕が知っていたお金ではないのである。これが、所謂「価値観が変わる」ということであろう。そして、この「価値観」と言うのが、今若者を悩ます「無気力」だとか「憂鬱」を咀嚼する鍵になりうるのではないか。
 何が言いたいのかというと、「憂鬱」とか「無気力」とか「虚無感」などは、「人生」に(増してや何事にも)「価値」を見出せないという精神状態、感情である。しかし、鬱病は現代の病とも言うし、若者がそういう風に感じるのには環境要因があるはずだ。
 これについて考えるにはまず「欲求」について語らなければならない。さて、例えばあなたが若干の空腹で、なにかおやつを食べたいと思っているとしよう。それでコンビニに向かう。棚には選びきれない種類のお菓子が陳列されている。さてあなたは一つを選ばなくてはいけない。そこで例えば「板チョコ」を選んだとしよう。これは僕が減量中によく自分に問うてたことなのだが、「それが本当に食べたいものなのか?」と問うてみてほしい。実際に自分の欲求に尋ねると、本当に今板チョコを食べたいのかわからないのである。欲求は板チョコを食べたい理由など答えられないのである。それかもしくは板チョコを5枚食べた後には板チョコなんてもう見たくもないと感じているであろう。正に、これって「価値観が変わる」ことなんじゃないか。要するに、価値観なんて仮想通貨みたいに不安定なもので、「価値」に対する担保が無いといくらでもブレることがあるはずなのだ。
 さて、「元気に生きれない」若者たちに共通する事柄として、「欲求に対する乾き」が無いことが挙げられるだろう。簡単に手に入るおいしい食事、自分で処理できる性欲、自分だけの部屋、にある快適な布団、ゲームがあれば暇することもない。恐らく、快楽を手に入れるのに相当な苦痛が伴った経験が無い。もしくはそれほどまでに欲した快楽が無いのだ。
 議論の着陸地が見えなくなってきたのでこれぐらいにしておきたい。「憂鬱、無気力な若者たち」は、すごく興味のある主題であるから。また別な機会に詳しく考察してみたいと思っている。
 
 

ヤンキー犬

連日ホステルで飲みまくって翌日は12時に起きる規則正しい生活を送っている。このような生活を続けていると頭と体がお互いを見失い、しばらくすると何方かが迷子になる。そんなイェレバンでの週末で、仕事見つけなくては行けない。ゲイに追いかけられている。身体の調子も良くない。こりゃいかんと思い、ランニングに出かけた。
 
 走り出すと、久々に自転車に乗った時みたいな気分になる。自転車の操縦を忘れているように、走り方も忘れているのだ。そして自分がこんなに早く移動することに驚く。
 少し離れた橋まで行ってみる。テヘランと比べて空気が綺麗ではあるが、やはり首都だ。大きい道路にいくと「おいしい」空気では絶対にないことを思い知る。橋を渡ると側に階段を見つけた。オーサーが橋の近くから川沿いのランニングコースがあると聞いていたので降りてみた。道路から離れるだけで空気が一気に澄む。気持ちよく走っていると、行き止まりに見つかる。ずっと走っていたかったので少しがっかりして止り、くるりと振り返り歩いて行った。
 するといきなり犬の鳴き声が僕のうしろからした。「ワンワン」と、可愛いものではなく、「バウバウ」という野犬の鳴き声だった。すこしびっくりして犬と目を合わせた。うるさいなぁと思ったが、対して相手もせずに、そのままゆっくり歩いて行った。しかし音は近づいて来くる。しかも一匹ではなく複数。声の数からして3匹目もいたかもしれないが目では確認していない。
 その時は息も切れていたし、なにより対して気にも止めていなかったから相手をしなかった。しかし暫くあるいてもまだ吠えながら僕のすぐ後ろを追いかけてくる。犬の真剣さに対して少し怖気ついた。その瞬間一匹が(多分こいつが群れの長みたいな存在だろう。率先して僕を追い詰める)声量を上げた、が、「声量」の他に確実になにかがあった。ヤンキーの「なめてんのかこら!」とか、叱咤、先生の説教に欠くことのできない「迫力」が確かに存在したのだ。犬にも、畜生にもここで勝負しようという気概と戦略があるのかと感心するばかりである。
 これに一驚を喫した僕は、気づいたら本気で走り始めていた。犬と人間の駆けっこである。当然簡単に追いつかれる。犬の恐ろしさを知っているので、それなりに恐怖した。だが、噛まれたら直ぐに病院に行って狂犬病の検査をしてもらおう、と考えるぐらいの余裕はあった。
 2分ぐらい全力で疾走していると大きい道路に出ることができた。たくさんの車に驚いた犬たちは、追いかけるのをやめて、立ち止まり吠え続けた。僕も速度を落として、犬に追いかられるアジア人を不審そうに見つめる夫婦に向かい半笑いした。