些事記

放浪の身で僭越ですが、語らせてください。

言語と思考

 
昨晩はベッドで横になりながら面白いことを考えていた。「思考」について。アブヤーネでTさんとの会話が思い出される。
 
 「最近考える時、ペルシア語で考えれるようになったんですよね。」
 「え、言葉使ってもの考えてるの?考えるとき言語使わない。」
 「え、ホントですか。それは珍しいですね。」
 
この時初めて考えるときに言語を使う人がいるのかと知った。その時は対して気にも止めずに放っておいたが、最近意図せずに自分が言葉を使って思考しているのに気づいた。キエフで一人で生活していて英語を話す人が少ないから、放置された日本語が自己主張を始めているのか。実際、ずいぶん長い間人間と対話をしていない。スーパーで「袋いりますか」と聞かれ「ニエット」というぐらいの会話はしているけど。いかんせん体調が優れないので友達と遊びにいったり飲みに行ったりできていない。(面白いのがこれが全然苦痛じゃないところ。一人で黙ることは僕にとって大したストレスではないんだ。)
 思考するのに言語を使い始めて、随分頭の中が整理されたように感じる。これは楽だなと思い。ふとこれからも意識して言語を使って思考していこうと思ったのだが、2つだけ欠点がある。
 一つ目は、言葉で考えるのは時間がかかるのである。僕は文章を読み上げるように考えるので発話する分だけ時間を浪費しなくてはいけない。そして二つ目は、言語はそもそも「対話」の為に作られた道具であるので、脳みそのなかで使われるように開発されていないということだ。要するに思考に不向きだと思うのである。しかし、何か明文化された命題があってそれに対する回答を導き出したい場合は、言語を使わないよりは使った方がうまく思考ができるのではないか。(結局言語で答えを出さないといけないので。)
 僕の思考は、そもそも注意散漫である。「思考」のことを考えているときに「進撃の巨人」に行き着いたりするぐらい脈略がない。自分でも制御できていない。そもそも制御する必要性を今まで感じなかった。なにかインスピレーションを得たいときは元々の思考法は使えるかもしれないが、何かを文章やほかの媒介で出力したいときは言葉または映像のイメージを脳内で十分に活用するべきだ。